全教協を結成したわけ


社団法人全国教育問題協議会(全教協)の結成

  昭和51年(1976)十月、東京青山会館において発起人会を開催、結成準備会を経て、翌昭和52年(1977)3月10日、東京都千代田区全共連ビルにおいて結成大会を開催。会長に鈴木勘次郎氏(栃木)(故人)ほか役員を選出、活動方針を決定し、全国教育問題連絡協議会(全教連)が誕生した。
  
 昭和56年(1981)4月1日、文部大臣から社団法人の認可を受け、同年6月28日、東京青山健保会館において社団法人設立総会を開催、定款を決め、会の名称を「全国教育問題協議会」〈全教協)に変更し、社団法人として活動を展開することになった。
 
 社団法人化するにあたり、当時副理事長・現全教協顧問・大石病院院長梶山茂氏(長崎)はじめ多くの方々の並々ならぬ努力のたまものがあった。

 日本の教育荒廃の主原因となった日教組の違法な行動に対し、決然として立ち上がって教育の正常化を訴えた全国の民間人が心を一つにして結成した教育正常化団体が全教協(全国教育問題協議会)であった。全てボランティア精神に基づき、役員も会員も皆、浄財を出し合って運営している。

 (社)全教協に加入しているメンバーは、大別して団体と個人の二つに分けられる。十五団体、全国で約八千人で構成され、役員・会員の浄財によって活動している。すべてボランティア精神に基づき、教育の正常化を願って活動を展開し、今年(平成22年)で結成してから32年目(32年間の歩み)を迎えている。

なぜ(社)全教協を結成したのか(結成の背景)

  昭和20年(1945)、日本を占領したアメリカ軍は占領政策の一つとして、日本の教育を民主主義教育といった美名のもと、教育改革を断行した。

 自由・平和・民主主義の旗のもと、軍国主義を一掃を図った。この動きに便乗した当時の日本共産党、社会党のテコ入れによって「日本教職員組合」が昭和22年(1947)に結成されると同時に、バックアップした進歩的学者・文化人ならびに一部のマスメディア集団は、社会主義社会の実現に向け、意図的に教育界へのイデオロギー浸透のための運動を展開したのである。
  
 日教組は「教師は科学的真理に基づいて行動する」「教師は労働者である」「教師は平和を守る」など十項目にわたる教師の倫理綱領を掲げ、特定なイデオロギーを教育現場に持ち込み、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンのもと、経済闘争、教育闘争、政治闘争のための反体制運動に明け暮れた。
 
 昭和41年から昭和63年まで20年間に行った全国統一ストライキは三十五回に及び、その間に参加した教職員数は延べ七百万人にのぼり、延べ八十四万人が懲戒処分を受けるという現実をうみ、学校教育現場は混乱し、教育は荒廃した。
 
 その結果、民族の誇りである歴史・伝統を見失い、加えて戦後の経済優先の施策が先行したため、人間形成の原点である“心の教育”が喪失し、教育荒廃現象が噴出した
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 一方、昭和30年代に入り、全国の心ある教職員の中から「日教組の教育本来の目的を逸脱した活動にはついていけない。」「議会制民主主義のもとで、公教育に携わる教職員として、特定のイデオロギーや政党に偏った活動は間違っている」「遵法精神に徹した教職員団体をつくろう」「教師は労働者ではない。教師は専門職として社会に貢献すべきだ」という声が湧き起こってきた。
  
 昭和32年(1957)、多くの困難を乗り越え、日本最初の教育正常化を目指した教職員団体の組織である「日本教職員団体連合会」が結成され、全国に広がっていき、日本教職員連盟(日教連)や日本新教職員連合会(新教組)が誕生しました。
  
 昭和50年(1975)に入り、現在の「全日本教職員連盟」(全日教連)の前身の日教連(日本教職員連盟)・新教組(日本新教職員連合会)などの教育の正常化を願う教職員団体の活動が活発になると共に、一般民間人の間にも教育の荒廃を憂える声が全国に湧き起こり、教育行政に対して筋を正すための要請行動の動きが起こってくると共に、教育正常化の運動を支援する声が大きくなってきたのです。
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 (社)全教協はこのような背景の中で、日本の未来を憂える民間人が結集し、浄財を出し合って全国組織として結成されていったのである


▼教育基本法改正運動の口火を切り、その願いを実現させた
  (社)全教協は、10年前の平成11年、活動の重点の一つとして「教育基本法改正運動」を民間団体として取り組んだ。会員の意見を集約し、国会議員全員に対するアンケート、文部科学省、国会議員・政党に対する要望を根気強く、しかも誠意を持って行った。
  
 特に、平成11年8月、各政党所属の国会議員をパネリストに迎え、「いまのままでよいのか、教育基本法」をテーマにして、東京都大田区にあるブライダルホテル、アペアでシンポジウムを開催、教育基本法の改正運動に火をつけた。
 
 以後、教育基本法の改正論議が燎原の火の如く燃え上り、政府与党はもとより、文部科学省、教育関係団体、有識者らが立ち上がり、平成十九年、安倍内閣の手により、戦後六十年間タブーとされてきた教育基本法が改正された
 
 改正教育基本法には全教協が願った
 (一)愛国心の育成
 (二)日本の歴史・伝統の尊重
 (三)宗教教育の尊重
 (四)家庭教育の充実
 (五)教育行政の姿勢を正す
  という願いが実現したことを高く評価したい。
 「継続は力なり」の言葉通り、地道ではあるが続ける努力の意義を実感したのである。


全教協結成の背景

 昭和22年(1947)、 日本の教職員の約90%が加入し、 日本教職員組合 (日教組) が結成されました。 最初は教職員の給与、 勤務条件の改善が運動の中心でしたが、 徐々に政治闘争に運動方針を転換し、 違法ストライキ、 組合による学校管理、 文部行政に対する反対運動を子供を巻き込んで展開、 学校教育の現場はまさに無秩序状態になりました。 
 
 昭和41年から昭和60年までの20年間に教職員による全国規模のストライキは34回、 参加者は延べ約七百万人、 このうち懲戒処分を受けた教職員は約八十五万人にものぼっています。 
 
 昭和30年代に入り、 全国の心ある教職員の中から、 「日教組の教育本来の目的を逸脱した活動にはついていけない。 教師は専門職として社会に貢献すべきだ」 という声が湧きおこってきました。 
 
 昭和32年(1957)、 多くの困難をのりこえ、 日本最初の教育正常化を目指した教職員団体の組織である 「日本教職員団体連合会」 が結成され、 全国に広がっていき、日教連、 新教組が誕生。
 昭和59年2月26日、 両組織が大同団結して現在の 「全日本教職員連盟」 (全日教連) に発展したのです。 
 
 教職員運動が偏向化、 先鋭化し、 学校現場が荒廃する一方、 昭和40年代後半から、 日本の経済的成長が熱するにつれて国民の意識が 「心から物へ」 となり、 家庭や社会での教育力は低下し、 学校も教育行政もややもすると 「事なかれ主義」 の風潮が教育界を覆いました。 学園紛争や家庭内暴力、 校内暴力が発生、 1980年代には 「いじめ」 が激増、 教育荒廃の現象が顕著になってきました。 
(22.8.15更新)